昭和40年12月18日 月次祭



 どんなに辛いことでも、きついことでもここを、辛抱しぬかせていただけば、おかげが受けられる。その辛抱しなければならない度合いが、きつければきついほど、重ければ重いほど、大きければ大きいほど、おかげも大きく広いものになるんだ、と言うことを、思い込ませてもらう。体験によって、そこを分からして頂く、でないと辛抱が、楽しいものになって来ない。
 辛抱しておると言う事は苦しいんだけれども。それから先のことを思うたら、それこそ「    」涙がぼろぼろ嬉し涙がでる。腹の底にはニコニコ笑うような、ここを辛抱しぬいたら、おかげを頂けれるぞという、その楽しみを持ってお互いが辛抱しぬけると、只、辛抱した辛抱しとはおっしゃらない。ね。信心辛抱とおっしゃる。久留米の初代に、まだ久留米の初代が御本部で御修行中に。
 四神様の御時代ですから、お広間前のその時分は色んな勉強がございませんから、神習するだけ、ご結界のご様子を拝まして頂いてから、それを神習わして頂くだけだったそうです。或る時に、久留米の石橋先生がそういう修行なさっとられますと、四神様が御結界から手招きをされる。石橋さん、石橋さんおいでられますと、なあ石橋さん、(信心辛抱さえしとれば物事ととわぬことないぞ)と仰った。
 それがですね、それこそ石橋先生の心の中に、どれだけの力になったか分らん。久留米の信心はこれだけで、その別に、お話が上手の方でなかったんですね。ですから、そのことだけいっておられた。辛抱しなさい、辛抱しなさい、神様に縋って辛抱しなさいち、信心辛抱じゃ、信心辛抱さえしとれば、物事整わぬことないぞと、これがね、ただの辛抱しぬくだけならね。
 それは不成就に終わることもあれば、辛抱したことがやはりおかげになりましても、それが、実に花になりましても辛抱した後がです。いわゆる、そのなんとはなしに辛抱しぬいた人なんかは、頑固になるですね、人間が。いわゆる頑固爺とか、鬼婆々とかいった様なことになりかねないのです。私どんが若かったけん、あんたこげんして辛抱したばのちいうてから、嫁御にでん言うごとなってくる。
 ところが、神様に縋っての辛抱なのである。神様に縋っての辛抱、本当に神様つろうございます。けれども、その後から沸いてくるもの、ここを辛抱しぬかせて頂けばおかげが頂けれると神様が仰った。又、そういう様な信心辛抱さえしとればおかげいただけれるという体験をです、ささやかながら、自分の信心によって積み重ねいく時に、それが大きな辛抱しなければならない様な時に、直面すればする程に。
 ハアーこの辛抱しぬいたら、どげなおかげ頂けれるじゃろうかと、という楽しみのある私は、辛抱でなからにゃいけんと思うですよね。今日もう、あ、そうそう十時頃でした。或る方が、毎日参ってまいります。本当にここに、おかげを頂かれる様になって五、六年にもなりますでしょうか。それこそ大変な非常に華やかな人ですから、派手な商売をしておられましたです。
 それがもうすってんころりん取られてしもうただけでなく、沢山の借金が残った。それでもう、暫くはその身を隠す様にして居られたんですけれども、ここ二年余りまた細々とした仕事をなさっておられる。神様にお許しを頂いてからもうそうですねぇ、やっぱり二十回位この二年間位の間には、お伺いになったでしょう。もう、先生いよいよいけません、先生何か他に勤めさせて下さい。
 先生、他の商売をお許し頂きます様にお願いして下さいち、そのたんびたんびに、さあここが辛抱じゃ、さあここが辛抱だという様なわけなのです。ここ二、三日私はこの非情ということに取り組んでおる。お取次ぎはあんまり有情あんまり情がありすぎては、本当のおかげが頂かれない。非情な迄に、私は、天地の親神様のお心の中にはね、そういう二つの心があると思うですね。
 いわゆる、その母性愛的な、又は、父性愛的な叩いでも分からせようなさる働きとですね、それを、抱きかかえる様な働きとがある様にです。ですから、どうでもお取次をさせて頂く者は、その二つの面を備えなければいけん。私はどっちかというとその情がいわば過多性の方です。多い過ぎる方です。ですから、それで何時も失敗をする。先生どうぞ助けてくださいというとこっちもその気になってから、ハアーそりゃ苦しかろうというてから、これではおかげにならんですね。
 これはですね、皆さんの信心が高められてまいりますとですね。これが、私は非情になれるんです。でなかったら私と皆さんが本当に親子の様になられたら、私は非情になれるです。これは、私は他所の方達は、それは本当に話を聞きます。或る先生の話を聞きました。子供さんが危篤の状態になった、いよいよこれは難しかろうちいう時に、ご神前に額突いてから一晩中ご祈念をなさった。
 それで、ご祈念をしながらホツと気ずかれたこと、これがもしここの信者の子供であったらどうであろうかとこう思うた。自分の子供の気持ちで、これからお取次ぎをさせてもらわにゃならんなといったようなことを、悟ったという様なお話をよく聞きます。ところが、これは私は反対です。不思議にもう不思議にありがたいです。これは、私が神様を信ずる力というか、おかげを頂いて。
 だんだん、まあ、くそ度胸かもしれませんけれども、度胸がでけてきたんじゃないかとこう思うですね。もうこれが子供であり、家内であるといった様な場合なんか、もう本当にも、うその様に私は冷淡にしております。自分ながら不思議です。いわゆる非情です、ですから、不思議な奇跡的なおかげを受けます。何時も私は例をもって申します様に、長男がまだ小学校の十一、二の時だったでしょうかねぇ。
 この頃私は長男から始めて、そのことを聞いたんですけども、このくらいな竹を叩いてパアーツと勢いで飛ばして野球をする様な、ルールで遊ぶ遊びがあるんだそうです。私共には危険な遊びはなかった。それがそのパアーと刺さったんですね。それで、篠原さんが、お母さんがビックリしてから、お父さん呼びに行きなさった。畑で仕事しよんなさった。それで、お父さんビックリしてからそれを引き抜かれたもんだから。
 目がこうひっくり返ってしもうた。知らせを受けて家内がそれを連れに行ってひっ抱えて連れて来た時には、もう、それこそヒスッ泣いとりました。私はお結界奉仕させて頂いとりましたが、もう全然これがですね、もうビリッともう動かんのです。よーし痛くない様にお願いするぞーと、本当にいうたぎりでした。それをひっ抱えてから、ものの十分か十五分しとりましたら泣きやみました。そのまま眠ったんですね。
 晩にはひっくり返っとるその目が全部中へ治まってしまいました。勿論、ついこの頃迄後があったと、四、五日前申しておりましたがですね。ほんにそういうことがあった、あれが信者の子弟であったらどうだろう、私の方が慌てたに違いないです。私今でも忘れはしませんけれども、上滝さんが亡くなったというて、朝お届けしてきた時なんかは、私はツーとご神前に出らずに便所の中に入ったです。
 もうどうしてこげな心でご神前に出たらいかんと思ったんですからね、ですから、便所の中に入ってから自分の心を一辺治めてから、ご神前に出ました。ところがですね、いわゆる長男の時、これは私の家族の者の時なんかはですね。いつもそこんところを、私はいわば家内が申します。もう是もやっぱり目で一、二週間位朝と晩も泣き通しに泣くほどに難儀したことがございます。
 そんな時なんかは、仕舞いにはね、もうあ々たの様な冷淡な人は知らんという家内が私に申しました。それけんちいうと、俺が撫でたりさすったりしてやってから、お前の目がよくなるわけないじゃないか。俺は、神様に向かうほかなかというな気持ち、それはほんとに冷淡なというわけじゃない。痛かろと思うんです、非情になれる。ですから、私と皆さんとの中にです。
 そういう、いわば関わり合というとに育ってくればいいのですけども、なかなかそういうわけにはいくまい。そこで私は、今朝から皆さんに申しましたんですけれどもね。これはもう、お互いがね、もう本当にどん腹すえてどうでもよいという、お取次ぎのでける信心を頂く以外ない。泥棒に入られました。どうぞ出てきます様にという願いなら、私それを願わんわけにはいかん。
 お取祓い頂いてありがたし、本当に、お礼を申さして頂くという様な信心、そして、出る出らんは別問題、お取次ぎだけを頂くという、いわゆる、ままよという心、ままよとは死んでもままよという心、その心を頂かなければ十二分の徳は受けられんとこう仰っとられる。子供が、例えば重体に陥った時もです。枕元に居ったらというて病人が助かるわけじゃない。そういう時には、教祖はこういう風に教えておられます。
 その子供がいうことを聞かん時に、言うても言うても親の言うことを聞かん時、しんしょを言うて聞かんとき、アーせからしげなか、もう構わんぞという様な時があろうがと仰る。ねぇ 自分の子供はかまわん、そういう気持ちになって神に縋ってやれと仰る。非情なんだ、これはもう、本当におかげを頂くというか、お徳を受ける。もう、最高の境地じゃないかとこう思うですね。
 ですから、お互いの信心がそこまで高められる以外にない。そこまで、皆さんの信心が高まることをひとつ稽古してください。いよいよの時に、ままよというどん腹の据えられるところの、ひとつ信心を頂かなければならん。そういう信心をです、私共が頂かして頂くために、今日の私のご理解を本気で頂かして頂かにゃならない。それは、辛抱より他に受けれる道はない、私はこう確信する。
 勿論神様に縋っての辛抱、神に縋っての辛抱、辛抱しとりますじゃいかん、辛抱しぬかなければ。ここまでは辛抱するけれども、それから先はくずれとるとい様な辛抱ではつまらん。辛抱しぬかなければいかん。そしてそこに体験が生まれてくるところにです、そういう辛抱しぬかして頂くということが、私が徳をうけたというなら、あん時受けたので、ああいあ所を通ればああいうおかげも受けられるという体験がです。
 次に又辛抱しぬかなければならない事を、楽しいものにするわけなんです。信心辛抱さえしとれば物事整わぬ事ない。その方が例えばです二年間お商売取り上げられて、一時は自分の身を隠す程の悩みの中から、細々としてその日暮らし的なお商売を始められた。ですから、それがもうこの頃はです。その今日来て言われるんです。もう他所の方で私が作ってる物がもっと立派なものがどんどん安くて、しかも立派なものがです。
 私の得意先にどんどん入って来たというわけなんです。ところが、私がその方が御初穂の整理を、御初穂しよるとこで頂きますことは、梯子を頂きました。私はそれで梯子を頂いたどういうことだろうかと思いよったら、その、お届けをなさいましたから、私は、その方に○○さん本当、それは本当におかげ頂きよるとばい、もうお礼申し上げにゃいかん、もいいよいよおかげが近こうなった。
 したら私が顔をジーッと見てから、何時でんあげなこつばっかり言うてからちいうごたる顔ばするんですよ。誰でもそうあるんですねやはり、もう先生何遍私しゃだまされたですか。そいうごたる風な顔なんです。ほんなこて、私も、ほんなこて騙しとっとなら面なかごたるばってん、私は神様から頂いてから、そげんいよっとじゃけんて、もうそりゃ、もうおかげ頂きよる。
 そりゃもうおかげが近ずきよると、今ね私はああたがそこに来た時に、梯子ば頂いたご心眼に、いうなら、梯子ばここまでズーット、さあ十段あるとば八段め登った時には、もう上がめっかりよる。ここの一段上のところに上がれるということだから、それで先生来年はこういう商売をさしてください。来年のことズーットいいよる、来年のこと言うと鬼が笑う。来年のこと言いなさんなて私が。
 ほんなこて何時もそげなこというてからちいうごたるつもりで、今日はどうか言うつもりで大体来とるとです。それが大体分かる。けれども私は今朝のご理解頂いとりますから、もう、本当に非情になれたわけなんですね。本当のおかげを頂いてもらわんならんと思うから、そして梯子をこうやって、もうあんた十段目が、八段目登っとるから、上はもうやがて見えると。
 ここを登るのがきつか、も十段登ってこんならん、けども上がったら最後、ここは二階か三階か分からんけれども、今迄の世界とは違った自由な開けた世界がある。と梯子ん段じゃの上じゃ窮屈な、その窮屈な所を二年間通ってきたとこじゃないか、もう、そこが見えてきた。サアー頑張るところばいち言うたら、もうそれこそありがたい顔にパアーッと変ってくるんですね。
 是だけでおかげ頂くと私は思うです。本当先生ご理解頂かにゃ分かりませんて。今日はもう一日御用さして頂くちいうてから御用頂いて帰られました。これも又そうでした是は、そげん深刻な問題じゃなかばってん、そのおかげ頂きたいとですたいね。おかげ頂きます様に、おかげ頂きます様にていうことじゃった。そしたらそりゃばってんからね、本当に心から有難いと思える時に頂くものでなからにゃいかんと私は、ね。
  それは今もいただいとる。そこだけはよかかも知らん、例えば金銭のお繰り合わせであるとするならばです、そこだけの借金払いはでけるかも知らんけれども、他のところの借金はどうするのと 私がいう一件二件じゃなかろうがと私が、ねぇ、ご心眼に頂きます。何かその梅の木の枯れたごたつと、それに鶯が来てとまっとるところ、なあこれじゃいくまいがせめて三分咲きなり、四分咲きなり咲いてきて。
 それこそ梅の花の香りのプンプンする位な時になってです、鶯が止まるホーホケキョと聞けれるおかげを頂く為にはです。まあ辛抱がいるばいと私が。それがちったほんなこてやっぱ枯れた木に止まるよりか、ちった梅の花が咲いてから止まった方がよかち 思うらしいですね諦めて帰ってから本当にそうだと、こう元気が出る様ですね。生きたご理解というのもう何時も、私共の心を和やかに心の中に安心を与えて下さる。
 先生あげなこつ言いなさるばってんちいうなら、始めから疑うて聞かなければ仕方がない。けれどもこれが、私が言よるとじゃない確かに神様から頂いて、先生が私共に下さっとるんだと分からして頂いてから、そこで辛抱がでけるですね。椛目の方達なんかは、そういう意味合いで辛抱がしよいと思うです。いよいよ辛抱がしきらんごたる時には、お願いを という様な心が開いてくる様なです。
 ヨーシひと辛抱さしてもらうぞという様な元気の出る様なおかげがいただけれる。これは、椛目の独断上だと思うですね。それは、神様のご都合いうたら、時にはどういうご都合ですかち言うごたる。ねぇ。皆さんだからここんところをですね。だから十のものを九つまで辛抱したからというていよるとじゃないです。辛抱しぬかなければ駄目です。信心辛抱しぬかなければいけません。
 ですから、それを歯をくいしばって辛抱とこういうならば、泣き泣き辛抱でもですね、心の底には、それを確信し、それを又、過去の信心体験によっていよいよ積み上げていって、こういう辛抱さして頂く時には、神様が必ずおかげを下さる時であるという、ひとつの確信をもってです。その、こと、その問題に取り組んでおかげを頂かしてもろうたらありがたいと思うですね。
 三代様も仰っとられます。神信心には辛抱する事が一番大切で御座いますと仰る。この頃から麻生さんの結婚式が此処で御座いました。後でそのなんですかねその寄せ書きをするのですが、関係の人達がお目出たい言葉を沢山なさって書いて御座います。見事な筆蹟で書いて御座います。一番最後に私何か一筆書けとこういう、所が書く所がない全部書いてある。一番上の頁の所があいとるから、その余白に書かせて頂いた。
 もう信心しとるけんで、信心辛抱することは間違いないけんと思うてから、辛抱することが一番大切でございますと書かしてもろうた。そしてから、私他の素晴らしいいわば名文句ですね。見せて頂きながら、ハハアー、これは麻生さんが一番これを見てからおかげ頂くのは、私のこれを見てからおかげ頂くだろうと、夫婦の者がいよいよの時には、それを開いて見たら、辛抱することが一番大切と書いてある。
 一番大切なものを疎かにしちゃならんです。信心さして頂く者はこれが一番大切だと言うことを、その一番大切なものを疎かにして、おかげの頂けるはずがないことが分かります。ところがね、ほんに、その一口が、言ったら、それがよか時がありますもんね。ああいう時には、やはり大事なんですよね。お腹の中には、それこそブツブツ言い出してくる、発酵してるわけなんですよね、たいがい。
 金光様、金光様ち言いよるばってん、こっちの方が強うなってくる。そこんところが、私しんぼうしなければいけない、いよいよ生神金光大神様、天地金乃神様と、私、先日皆さんに言いましたんですけどね。あの天地書附を、奉唱さしてもらいます時に、生神金光大神様、『生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり』皆さんが、あさばん奉唱される。
 只奉唱しただけじゃいかん、あれを奉唱するたんびにそうどころじゃない、そうどころじゃないと思って、あれは奉唱せにゃいかんのです。『生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり』そうどこじゃなか、おかげは和賀心にあるのである。そうどころじゃない、唱えるたんべんにその事にそうどころじゃない、そうどころじゃないと、肯定しながらおかげを頂いていかなければいけない。
 ですからやはり金光様、金光様じゃいかん時には、やっぱ天地書附をとなえにゃいかん。いよいよいかん時にはご神前に出るがよい、いよいよいかんん時には椛目に走ってくるがよい。そしてそこを辛抱しぬかせて頂く時にです。それは丁度お酒のもとがブツブツ発酵しておる様にあれを蓋を取ったら、後はアルコール分が無くなってしまう。ですからこれは絶対生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありでこれを蓋していく、抑えていくところに芳醇な香りが出てくる。
 アルコールが出てくる。辛抱の徳というものが身についてくる。それを絞って始めてあの清酒が生まれる。いわゆる有難き勿体なき、恐れ多きの神酒はそういう風にして出来上げるのです。そういう有難い辛抱しぬかせて頂けば、有難いという体験をどうでも頂かにゃいかん。もう言わんでおってよかったと、言いたい事は明日言えという様にです。もう明日は言わんですむ様なおかげの頂けると言う事なんです。
 そんなら明日言おうというてそれじゃいけませんね。人間の業はいかに、只感情だけでものいよるかが分かる。その証拠に時間を置くと、これを言わんですむ様になるのですから、そこを、神様にお縋をさせて頂いて辛抱しぬくのです。しかも、その辛抱しぬくのです。必ず、神様のお心に突き通す様に通うていくのです。この辛抱は、信心辛抱さえしとれば物事整わぬことない。
 神信心には、辛抱することが一番大切でございますと、私共が、どうぞというてお願いしとることは、まだ信心辛抱梅の花の花も咲かん、香りもしよらんのにもってきて鶯が来て止まることを願っておる様なものではないかと思うてみたり、今こそ自分は梯子段の真中できついきついというておるのではなかろうか、ここで辛抱しぬけないということは、もう下へ降りる様なもの。
 ですから、下へ降りたんじゃつまらんから頂きぬかなければ、登りぬかなければいかん、そして二階なり三階なりに登っていくところの広場を、私共で頂いていかねばならぬ。今日は、その信心辛抱さえしとりゃ物事整わぬことないと、辛抱、それを只、がむしゃらに辛抱するのじゃない、神様にお縋りをさせて頂いての辛抱、それを、例えば九分九厘まで辛抱したからと言って、一分で出したらもうだめだと。
 しぬかなければ神様はありがたいものは与えて下さらない。その、ありがたい楽しみをです。わたしどもは味わいながら辛抱さして頂くところの道を、椛目ではいよいよの時には、その○○さん二人に私がお届けさして頂いた様にですご理解をもって、私共のそれこそ、教祖吾を救いたもうわけなんだ。その救われながら、私共本当の助かりを求めて信心を進めていかなければならんと思うのでございます。
 本当に、一年ぐらい過ごすのは、早いもんだと思います。又、私のどもの、大坪の家の謝恩祭が、この二十三日の、月次祭に合わせてございます。善導寺の親先生が、お見えて頂きます。時間を七時からでございますから、そのおつもりで、どうぞおいでかけ下さいます様に、その日は、皆さん残って頂いてご、直会までおかげ頂いていってもらいたいと思うとります。
 いわゆる今年最後のお月次祭であると同時に、私の方の家の謝恩祭、恐らく謝恩祭、宅祭りというのは、今年がいよいよ最後ではなかろうかとこう思うのです。私一信者としてのお祭りでございますから、もうこの次には、この謝恩祭がなくなりまして、恐らく四神様のお祭り報徳祭ということになるのじゃないかと思うとります。まあ本年最後の宅祭りを、いよいよ意義あるありがたいものに。
 家族をあげてさして頂かねばならんというて話しておる訳でございますけども、皆さんにとりましても、最後のお月次祭でございますから、どうぞ万事お繰り合わせを頂いてご参拝頂きます様に、お祭りは七時でございますから、どうぞ時間励行でお願い致します。おかげを頂きましてご造営の方も、今日お広前の方の棟上げがあったそうでございます。今日行かれた方達が、もう本当に堂々たるこうしたつが、こう屋根かがこう出たんですねぇ。それでもう本当にちょっと見事な風が見えてまいりました。
 折を見られたら是非ひとつあちらにご覧になって頂きたい。そして、自分の心の中のものをです。本当にありがたい心をです、ふるいたたさなければいけん。聞いとるだけじゃいかん、やっぱ実際見て見るとです、ハアーこれだけのことが出来る。これはじっとしちゃおらけんぞという様なおかげをいただかなければ、私はおかげにならんとこう思うのです。どうぞよろしくお願いいたします。
 今日はどうぞ、只、信心辛抱のことだけを申しました。まあ色々に申しました。どうぞひとつ早速、もう本当に早速これは行じられることでございますから、皆さん本気で辛抱しぬかれて、そしてそのことが成程有難いものだという体験をですね。ご結界に持ってきてお礼のお届けが出来るくらいな、おかげをひとつ頂いてもらいたいと思うですね。
   どうぞ、よろしくお願いいたします。